昭和四十七年五月十七日 朝の御理解
X御理解 第二節 「先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神         徳は、信心すればだれでも受けることができる。みてるというこ         とがない。」
 信心すれはとあるのは、○○教の信心をすれはでもなからなければ、○○宗の信心をすればではない。いわゆるそれでは、御神徳は受けられないと思う。
 どこまでも、やはり金光教でなからなければならない。徳を受けるという事はあります。しかし御神徳というのは、金光様が頂かれた神様、いわゆる天地金乃神様から受けるのですから、これはどうしても、金光様の御信心によらなければお徳は受けられません。信心すればという事は、だから金光様の信心をすればという事です。
 そんなら、金光様の信心をしておれば、誰でも受けられるかと言うと、そうでもありません。もう本当に御神徳を受けられているというのは、本当に数えるだけじゃなかろうかと思います。
 それでやはり、お道の信心によって御神徳を受けられたという方達の、いわゆる生きられ方というようなものが、やはりどうしても参考にしなければならん。
 第一教祖生神金光大神の生きられ方という事が言われます。そこで実は、結局、その生きられ方を頂くという事は、まあ、いわば、まねるという事になるのですけども実は、まねるといったような事では出来ません。
 何故かというと、臨機応変とでも申しましょうか、その時、その時のね、事情が違うからです。例えば、教祖金光大神が借金でお苦しみになったといったような事は、お伝記にはありません。ですから本当に、借金に苦しんでおる時には、どういう生き方をしたらよいかというような事は、金光大神をひもといてもわからんのです。
 それはだから大坪総一郎の方が、だから参考になるわけです。私共はやはり、借金に苦しみぬかせて頂いたし、又、それのところを神様におすがりして、おかげを頂こうと一生懸命になりましたし、それをおかげ頂く為はには、神様は私にどう指導なさったか、教導なさったかという事を聞いて頂くが一番いい。
 ですからこれは借金の事なら私に持ってきなさいだけれども、他の事はそういうわけには参りません。ですから、結局各々のところでですね、御神徳のいわば頂けるような信心がなされなきゃいけん。
 私がここで金銭の事なら持ってきなさい、特に私が商人だから、商売の手形の何のかのというごたる事なら合楽にもって来い、といえれるのは、私がその意味に於いての徳を受けとるからだと思うです、それが言えれるという事は。
 そこでそんなら、私の例で申しますなら、借金の事について、私が借金に対する、どういう姿勢をとらせて頂いたかという事です。もう私はそれをなおざりにはしなかった。それも神様のおかげです。神様のおかげを頂けばこそ出来たんですけれども、まあいつも例に出ますけれども、福岡の松枝さんという方に対する私の借金、もう、これが一番苦しみました。いわゆる苦労でした。
 払えるわけがないのに、払う、払う、何時は払う、払うといわなければ向こうが、承知しませんから、まあ十五日待って下さい、まあ十日待って下さい。それでそれを放任しとけばまあ集金に来られても、逃げかくれすればですね、いいのですけど神様はそういう事は全然許されれませんでした。約束の十日にはきちっと断りに出されました。もう五へん十へんならいいですけどせ、それが度重なって参りますと、もうそれは大変な辛い事ですよ。借金の断りに行くという事は。もう面からいわれよりました。又大坪さんすらごつ言いげ来たかというていわれよりました。それでも、やはり行きました。もうそれはそれは、その人の家の前まで行きますと、足がピタと止まるとですけん、入られんとです中に。それでも生神金光大神様で入ったもんです。
 ですから借金に対しては、私はそういう姿勢をとったんです。後から考えてみると成程これがお金借りた方が、貸して下さった方へ対するところの信心であり、まあ、いうならば実意丁寧だという事がわかります。
 これはもう私の考えなら絶対行きやしません。仕様がないなら向こうから集金に来るでしょう。その時は口実を作って逃げかくれするでしょう。そういう事がなかった だからこそ、私がおかげ頂いて、払いに行く時にはもう、大坪さんそれはああたんところの神様にお供えして下さいといわれる程になってきたんです。
 結局神様がですね、もう何十回となしに、そういう修行を繰り返して下さった。しかも苦しいけれども、実意を持って丁寧をもって、わざわざ椛目から福岡まで断りにやられたたという事はです、考えてみると金に対するところのいうなら、金の徳を身につけさせて下さろうとする神様の働き以外ではなかったと、今にして思います。
 これは教祖金光様でも出来なさらん、知りなさらん、そんな事は、金に難儀なさった事がないから、まあいうならば、そんなら私も今おかげを頂いて金に不自由はしません。もう必要は必要に応じて、もう神様は絶対下さいます。それはもう、不思議な不思議な働きをもって下さる。それは皆さんが私の金銭に対するいわゆる行き方というものを何十年と見てきておって下さるから、その通りなんです。
 だから私はちがわん、あの世に行っても金には不自由せんじゃろう。あの世に持っていけるのだからと思うのです。
 信心すれば誰でもと、信心とは何々教、何々宗ではいけない。どうしても金光教の信心によらなければならない。これはね、いうなら何故かというと、他の宗教、宗派では天地金乃神様じゃないからですよ。天地金乃神様から頂くお徳をもって御神徳というのですから、天地金乃神様の御信用なのですから、お徳というのは。
 だから金光教の信心をしなければ頂けんのである。そんなら金光教の信心しとるから、誰でも受けられるかというと、そうではない。だからそれ々が持っておる難儀そのものはです、難儀ではなくて、今お金で難儀をしとるなら、健康の徳を下さろうとする働き、お金の徳を下さろうとする働き、人間関係で悩みを持っているなら、もう人間関係でだけは、例えば、昨日の綾部さんのところのお祭り、いわゆる大分支部の御大祭に頂きましたように、白と赤というのがです、これを白と赤にしたり、赤を白にしようという考え方、自分の思う通りに人をしようという考えかた、そうしたらさぞよかろうけれども、そういう事は決して問屋がおろすもっじゃない。
 だから赤は赤、白は白である。それでそんなら対立という事になる時に、人間関係がいよいよ難しくなってくる。いわゆる赤白合戦。
 いつも戦うとかねばならない。源氏と平家のようになってしまう。けれども、そこんところがです、白と赤とがです、ひとつになるというか、いうならひとかさねの赤白のお鏡さんのようになるならばです、それこそめでたい事になり有難い事になる。 それを自分の思うようにしたい、自分の思うようにいかなかったら、原が立ってたまらんというごたるなら、もうその人は一生人間関係で苦労していかなければならない。けれども赤が白を拝み、白が赤を拝むという例えば、今まで仇と思うておった人を拝めれるような道を、教祖金光大神は教えて下さったんです。
 だからそういう道を会得するところに今まで・・・・とおもうておったのが、あの人のおかげでという事になってくる。いほゆる赤白の鏡餅のような事になってくる。 天地がひとつになって、それこそ鶴亀の舞遊ぶような、鶴と亀というのは、鶴というのは高い所、亀というのは下の方にこうやって、大地にひれ伏したようにしておるのが亀である。その亀と鶴とが例えば離れておってもです、それこそ舞遊ぶようなめでたい、有難いというおかげになってくる。
 ですから人間関係でも、穂に苦しんでおる人はです、そういう素晴らしい鶴亀の舞遊ぶようなおかげの頂けれる、いうなら修行を今こそさせて頂いておるんだと、頂かなければならない。又わからなければならない。
 人間関係の苦しさに、自殺する人があるです、あの人からいじめられたとか、あの人からあげな事いわれたからというて、だからお互い持っておるそういう難儀をです難儀と見るもよかろうけれども、その難儀を段々わからせて頂いて、それを神愛とまで高めていく道なんです、金光様の御信心は。
 そういう信心をすれば誰でもおかげが受けられる。誰でもお徳が受けぱさるという事になるのですよ。それはあの人の面も見ろうごとないでしょう。けれどもです、そんなら私が、借金の断りにはもうどうしても行かれん、それでもやはり神様は、実意丁寧を尽くさせて下さった。
 もうあれが面は見ろうごつでんなかという、そういう人をです、段々おかげ頂いとりますと、それは不思議な事です、その人が私におかげを持って来てくださるような働きになってくる。ですから、これはもう本当ですよ。
 人間じゃけんやっぱ虫の好き嫌いがありますよ。けれども、だから虫の好かんごたるとを、いよいよ大事にしなければならんですね。もうこれは本当です。私は一人一人例をもって話たいけれどせ、そげなこつなら俺は親先生から好かれとらんじゃったばいのと思われちゃいけんから言いまけんけどね。これはもう本当にいやと思うような、そういうものをです私は大事にしていく、実意丁寧に接していくという事、そこからです、その人はいうならば、自分が嫌でたまらんというような仮面かぶっておられただけで、その仮面をとらせて頂くところから、もうその人が神様であったと思うのです。そういう信心をすればおかげが受けぱさる、いわゆるおかげじゃない、お徳を受けられるのです。だから、これはもう一人一人違うのです。だからこれだけは、親先生も出来なさるなま、わかりなさるまいという事が皆さんにもあっているわけなんです。皆さんが持っておる難儀というものをふんまえての。
 たとえば親子が仲が悪い、親子であって突くの切るのというのがありましょうが。 もうそういうような事どん私は全然知らんですから。だからそういう難儀を持ってる人は、私よりも親子の上におかげが受けられるでしょう。その事から徳を受けるでしょう。
 私は今朝、寒かったですから、もう一枚薄いものを着とるのにそれで何日か前に脱ぎすてておった下着と、それから中どぎまで今日は着せて頂いたんですけども、その時ふっと気づかせて頂いて、いわゆる何日か前に自分はこの中どぎやら、この着物に本当に長い間、寒い思いをせんで有難とうとお礼を言うとっただろうかと、只脱ぎすてておった事に気づいてですねえ。
 偉そうな事ばっかり言いよるけれども、それこそ私に隙があるなら、いつでん切り込んで来いなんて皆さんに言いよるけれども、もうこん時切り込んでこられとったら私はがっぱりやられとるわけです。「先生ああた、それを脱ぎすてよんなさるですね」とょほれたらそれきりじゃった。いつまででんテレビ室にまっ黒になったスト-ブが置いてある。もうほんにこげなもん邪魔になる。どうして片づけんじゃやうかとその事ばあっかりしか思いよらん。見るたんびに。とても、もうそれこそ、それのおかげをひと冬寒い思いをせんですんだのにです、もう暖かくなってくるとそれがじゃまになりよる。まあ、本当にね、もうお粗末な事ですよ。もう大抵、心に神様を頂き続けておるようであって、今日改めて私は、その事を次々とあれもじゃったこれもじゃったとこう思う。
 それがひどいのになるとですたい、年寄りを大事にしないというのがそうですよ。 若い時には、役に立つ時にはもう素晴らしいお父さんであったり、お父さんなんだけれども、もう歳を取ってよぼよぼになるとです、もう年寄りのねえごつ言いよるのと言うててから、都下よりを邪魔者にする。もうこういう事ではね、お徳の受けられるはずは絶対ないですよ。
 もう年寄りを邪魔者扱いにするような事では、もう御神意にかなわん。御気感にかなわん。私は今日、中動議を寒いので改めて持って来たから、自分の都合のよか時だけは大事ちする。いらんごとなったらもう脱ぎ捨てる。
 もう、こういう目のあらい事でと、私は改めて思わして頂いたんですけどもね。やはり水も漏らさん徳を受けというのはね、そういうところが丁寧に出来ておられるようですねえ。着る時も合掌して着らせて頂くなら、いうならば、もう暖かくなったから要らんという時にみ、本当にお礼を言う心でしまわせて頂くというような私は、そういう信心がね、身に付いてこなければいけないと思う。
 昨日の日田支部の御大祭頂いてから、いつもの事ながら本当にいたれりつくせりです。もう行き届いた事なんです。けれどせそれは、そんなら私に対するである、形のの上の事なんです。ですからこれは内容的にいうたら、これはそんなら綾部さん中心とする御用を頂いた方達でなからねばわからんのです。
 思うでみてあそこも不行届きであった、ここも不行届きであったと、それはもう前々から、御大祭の事を行き届くという、お取次を願われて、いよいよ御大祭が明日、明後日に迫ったという時には、もうどうぞ参拝者の上の事は尚更の事ですけれどせ、天候の事から願われて、お繰り合わせ頂かれた。
 御用頂かれる方達の上から、天候の上にもああいう、暑からず寒からずというおかげを頂いた。本当に神様が行き届いて願ってあるから、神様も又行き届いておかげを下さった。
けれども、なおなお反省させて頂いてですたい、あれも不行き届きだった、この次にはあそこのところもというようなところにです、やはり反省がなされなければならない。そういう事がです、只、大祭をよりこの次には立派な大祭を仕えるというのではなくて、それが信心なのです。金光様の御信心はだから、それが身について行くというのが信心なんです。信心生活とは、だからそういう信心をすれば、誰でもお徳が受けられるという事になるのじゃないでしょうか。
 行き届くと、もう金光様の信心は行き届くという事を言われる。それを又の言葉では実意丁寧とこう言われるわけです。いわゆる実意丁寧が本当に身に付いてくるとこのおかげを頂かして貰う。そういう信心をいよいよ身に付けていく事に、そういう信心をする事によって、いうなら誰でもお徳が受けられる事が出来ると、いうなら、神徳は信心すれば誰でも受ける事が出来ると。
 同時にそれは、大局的な意味に於いての金光教の信心によってお徳を頂いていける信心なんですね。それからこれは、もうあなただけのものというのがです、これは私がそんなら、私がもし、金銭の徳を受けておるとするならば、金銭に対する頂き方、又はそんなら私が金銭によって苦しんだ時の事が如何にその事に実意をもって当たらして下さったか、その時には苦しい事であったけれどもです、今から考えてみると、ははあ、金銭の徳を受ける為にみ、あのような生き方にならなければならないなという事を、これは教祖様も御承知じゃなかろう、私だけしか知るまいという事です。
 だから皆さんにも一人一人、それがあっているわけです。お互いが持っておるその難儀というものからです、これだけは私の独壇場、私はこれによって徳を受けたという事にならなけれはならんのです。
 素直心の一つにて雲の上まで登る道がある、という事はどういう事かというと神様がいちいち、さあ右向け左むけとおっしゃる。例えば、そういう神様の願いというかそれに応えられるとこのお素直な生き方という事なんですけれどもです、神様がちょっと呼びかけようとなさってもです、知らん顔しとるなら、呼びかけられんでしょうが。何かこう使おうと思うても、汚れたくっとるなら、神様の方が使おうごとあんなさらんでしょうが、そして自分だはは素直のつもりでおってもです、本当に神様に素直ひとつで癖の上まで登る道があるという事は只、素直という事のそういうふうな、検討が加えられなければいけんです。
 自分がこんなに汚れ果てておく。自分は冷淡に神様の方へ背を向けておる。いわゆる背信行為ですねえ。そういう者に対して、おいおい、こらこらと言うて呼びなさるはずがない。もういつも、神様の方へ清まった心で、清まった上でいつも神様の前に合掌しとる心の状態というのがあるからこそ、君ちょっと、とこういう事になるのです。そん朱鷺にハイという事にならにゃいけんなのです。
 私は今朝福岡で松永背のところで、いろいろなせのを書きよりましたら安東さんが私も一枚書いて下さいと言いなさるから、もうそれこそいきなりに、ハイと書いたんです、ひらがなで。そして書いた後にです、これは素晴らしいと思うた。もういつでもハイと言えれる状態というものがねなからなければけいない。
 それにはそんなら、私共がです神様が呼びかけようとなさっても、呼びかけられないような心の状態では、それで自分はいつもハイと言いよるという事で、雲の上まで登る道が開けるはずはありません。
 神様にいつも、もうそれこそお役に立ちたいお役に立ちたいの一念が燃えて、しかも神様がお使いようあんなさるだろをというところに焦点を置いて、清まる事に改まらせて頂く事に精進させて頂いてです、お役に立ちたい、お役に立ちたいという一念そこにはじめて、君あれをと神の願いもはじまるわけなんです。それを素直に受けて立たして貰う、そういう生き方に、又御神徳は頂けるでしょうねえ。成程、雲の上まで登る道が開けてくる程しの御神徳になっくるのです。
 信心すれば誰でも徳が受けられると。けれども○○宗、○○教では絶対に受けられない。いわゆる天地の徳は受けられない。いわゆる、教祖金光大神のお取次によって天地金乃神様を拝んでおる者でなけれは受けられない。
 そんなら金光様の信心したら誰でも受けられよるからいうと、そうではてい。
 只、今私が申しましたよ〓に生き方も願わせて頂く者の羽化だけ、御神徳は受けられるとのだという事ですね。
         どうぞ。